2007/8/2 木曜日

イングマール・ベルイマンのこと

Filed under: 映画 — tamasa @ 16:58:22

またもや1週間振りの更新となってしまいました(えっ、もういいって?)。失礼いたしました。

という間に、世界的な映画の巨匠がお亡くなりになりました。イングマール・ベルイマン…スウェーデンを代表する、というか、スウェーデンの映画監督といっても、ほとんどこの人くらいしか著名ではないのですが…。

彼の作品を初めて観たのは、もう二十数年前になります。最初が「沈黙」でしたか…。一般的に言われるように、ある種の“難解さ”はありますが、何というか、(ゴダールを観るときもそうですが)“心を素”にすれば、何の抵抗もなく楽しめます。

名前だけは高校生の頃から知っていたのですが、実際に観たのは、上京してからでした。映画青年だった当時、公私共に、ベルイマンの相方を務めたリブ・ウルマンの、“大人の女”的な妖艶な魅力に、それこそイチコロでした。

代表作であり、私自身も観ましたが、「第七の封印」や「野いちご」、「処女の泉」などなど、有名な作品は多々ありますが、個人的には、やはり、「沈黙」での夜行列車のシーンが一番印象深かったと思います。?

ベルイマンのことを書くとキリがないので止めておきますが、フェリーニやアンジェイ・ワイダ、アンドレイ・タルコフスキー、小津安二郎などと並ぶ、世界的な巨匠であることに異論を唱える人はいないと思います。

合掌。
ingmar_bergman.jpg

2007/3/26 月曜日

進歩しない(?)人間の思惑(その6)

Filed under: 映画 — tamasa @ 18:32:11

当初、テレビに対して相反するものという考えで対応してきた映画は、映像ビジネスの新しい流れによって、逆に、テレビと手を組まざるを得なくなったのです。

そして、組むべき相手は、その後、テレビだけでなく、ビデオやDVD、そして、昨今の映像配信といった新しいメディアの登場によって、どんどん増えていったのでした。

こうして、映画のビジネス上の位置付けや制作方法などは、そうした周囲のメディアと補完し合いながら、現在も続いているのです。

さて、こうした映画の歴史を振り返ったあと周囲を見渡すと、似たようなケースが実に多いことに気が付くと思います。

例えばテレビゲーム…。二十数年前、家庭用のテレビゲームが各社から登場してきました。が、最後に笑ったのは、最後発の任天堂でした。

競合他社は、ゲーム機のハードで利益を上げようと考えましたが、任天堂は、ハードで儲けなくてもいい、ソフトで儲けるんだ、という信念の下、スペック的には当時の最右翼であるにも拘わらず低価格で発売したのです。

こうして生まれた「ファミリーコンピュータ」は爆発的にヒットし、面白いゲームソフトがあれば、ハードは嫌でも(しかも、低価格のため)売れるということが証明されたのでした。

しかし、このあたりも、何か、映画の黎明期を彷彿とさせるものがあります。

ご存知のように、映画鑑賞機はエジソンによって発明されました。が、彼の「キネトスコープ」は、人一人が覗き穴から見るというもので、当然、フィルムの交換なども、各機械ごとに行う必要がありました。つまり彼は、一人しか観られないほうが、その分、機械の販売台数が増えるだろうと考えたのです。

エジソンの「キネトスコープ」

エジソンの「キネトスコープ」 出展:Wikipedia
ところが、数年ののちに登場した、フランスのリュミエール兄弟は、大きなスクリーンに巨大な映像を映し出し、一度の大勢の人々に鑑賞してもらう「シネマトグラフ」という方法を採りました。これによって、映画は、その後の歴史を開拓していくことができたのでした。

こうして映画の発明者であるエジソンは、“映画の父”と呼ばれることなく、その称号は、リュミエール兄弟に譲らざるを得なかったのでした。

そして現代。「You Tube」のような動画投稿サイト(共有サイト)などの勃興により、現在のメディア業界は、テレビだけでなく、CMやプロモーション、マーケティング、知的財産のあり方まで、改めて、その立場を問い直されています。

人間の思惑は、今まで見てきたように、既得権益を後生大事に守ろうとしたり、あるいは、過度の反応、もしくは表層のみしか見られないというような、さまざまな理由で、簡単に時代の流れを読み間違えてきました。

インターネットの登場によって歴史的なパラダイムシフトが起こっている現在、私たちは、これからの世の中の流れを、きちんと予測していくことができるでしょうか?

2007/3/23 金曜日

進歩しない(?)人間の思惑(その5)

Filed under: 映画 — tamasa @ 14:24:57

さて、“人間の思惑”…この場合、テレビにない特性を打ち出すことで、映画の優位性を誇示しようということですが、時代の流れは、そう単純ではありませんでした。

映画が先細りになるにつれて、映画そのものが、テレビの助けを借りなくてはいけなくなっていったのです。

今では一般的ですが、映画というものは、“興行”という位置付けから、テレビや本(ペーパーバック)など、複数のメディアと無縁ではいられなくなってしまったのです。

まず映画館で公開(ロードショー)されたものは、次にテレビで再放送されるということが、ごくごく当たり前になっていくと、今度は逆に、映画のワイドスクリーン化は、テレビで再放送する際、扱いづらいものになってしまったのです。

テレビのアスペクト費は1:1.33ですが、映画は、1:2.0以上のものが多数あり、そうなると、テレビの転地に合わせると左右の映像がカットされるし、左右を合わせると、天地には大きな無駄が出てしまいます。

※時には、左右に散った人物の台詞に合わせ、映像がパン(横移動)するという苦肉の策も現れましたが…

※手間は、何もテレビでの再放送だけでなく、撮影の際や、映画館で公開する際にも発生していました。横長の映像を少しでも効率よく撮影し、また上映するために、「アナモフィックレンズ」という、歪曲レンズを使い、撮影時には縦長に歪曲させて収め、上映時にはレンズの向きを90度変えて、元の横長に戻して映写するということも使われていたのでした。映画館で、本編上映直前に、ニュース映画やコマーシャルなどが終わったあと、アナモフィックレンズに替えるときのシルエットがスクリーンに映し出されるのをご覧になった方も多いと思います

アナモフィックレンズで横長に戻されて上映されたスクリーン

アナモフィックレンズで縦長に歪曲されて撮影されたフィルム

「日本一のホラ吹き男」(1964年) (C)Toho co., Ltd.

いずれにしても、テレビに対抗するために発生したワイドスクリーン化が、逆にテレビでの再放送の妨げになってしまったことは否めません。

こうして、映画のワイドスクリーン化は次第に沈静化し、少しずつテレビの画角に近づいていくことになります。

2007/3/20 火曜日

進歩しない(?)人間の思惑(その4)

Filed under: 映画 — tamasa @ 17:35:44

話が脱線しましたが、かくの如し、ワイドスクリーン化は、洋の東西を問わず、一斉を風靡したのでした。一時は、“70mm”などという映画も多数制作されましたが、子供の頃見た「猿の惑星」など、“何がななじゅうみりなの?”という感じで、不思議に思ったこともありました。

※70mmとは、フィルムの幅のことで、それまでの映画や一般家庭で使うカメラのフィルムサイズは35mm。ですので、単純に、2倍の幅のポジフィルムに焼き付けることになります(実際には、65mmの両側に、サウンドトラックを設けるなど、厳密に映像部の幅が70mmあったわけではありませんが)

70mmとひと口にいっても、『オクラホマ!』で知られる「TODD AO方式(1×2.20)」や「MGMカメラ65方式(1:2.72)」など数種類ありますが、要は、デジタルカメラの画素数のように、記録面積が大きいと、それだけ情報量もおおくなるため、大画面でもきれいな映像を楽しめる、というわけです。

80日間世界一周?

「80日間世界一周」 (C)United Artist

※「スーパーテクニラマ方式(1×2.20)」に至っては、35mmフィルムを水平に走行させて2コマで1コマを撮影し、それを70mmの上映用のフィルムに焼き付けるといったことまで行いました

こうなると、テレビのアスペクト比(1:1.33)に比べると画面自体大きいし、画面の幅も広いので、確かに映画館で観たときの迫力は増します。

ところが、映画という産業は、戦後急速に構造的変化に耐えられなくなり、勢いを失っていきます。日本では、昭和33年がピークだと言われますが、アメリカでは、戦後そうそうには、映画は斜陽産業(このことばの裏側にも、いろいろな意味はありますが。実際、現在もアメリカでは、多数の映画が制作されていますし)となっていくのでした。

ということで、このあたりから、人間の思惑が、技術や時代の流れに対して、いかに的外れなものであるのかが露呈してくるのでした。

2007/3/19 月曜日

進歩しない(?)人間の思惑(その3)

Filed under: 映画 — tamasa @ 19:02:30

さて今日は、ワイドスクリーン化の弊害について書こうと思ったのですが、ちょっとだけ横道にそれたいと思います。

このワイドスクリーン、代表的なものとしては20世紀FOX社の登録商標である「シネマスコープ」…略して“シネスコ”と呼ばれる方式が有名でしたが、日本でも、ほんの少し遅れて、ワイドスクリーン化が押し寄せてきました。

しかし、映画監督の中では、最後の最後まで、ワイドスクリーン化に背を向けた人たちがいました。

その代表的な監督が、かの小津安二郎、その人でした。

偏執狂的なまでに構図に拘る小津にしてみれば、画面のアスペクト比(縦横比)が変わることなど、決して受け入れられるものではなかったのでしょう。

「東京物語」では、老夫婦である、笠智衆と東山千栄子の背中が完全に相似形になるように、笠の背中に座布団(かな?)を入れるくらいの、また、「秋日和」では、若いカップル(佐田啓二と司葉子)がラーメン屋でラーメンを食べるシーンで、カウンターに並んで食べさせ、相似形を形作るなど、異様とも思えるほど構図に拘った人…。

※どこのカップルが、テーブル席が空いているのに、わざわざカウンターで並んで食べるのか!?

一方、かなり早くからワイドスクリーンに取り組み、自ら積極的に演出を変えていった監督に、黒澤明がいます。

特に「天国と地獄」の前半の、一環して室内だけで撮影されたシーンの数々は、複数の人物の動きやカメラ(この作品でも、黒澤得意のマルチカメラで撮影されていますが)には、“これぞワイドスクリーンの演出”と喝采を送りたくなるほどです。

天国と地獄?

「天国と地獄」(C)黒澤プロダクション・東宝

このように、日本を代表する両巨頭が、かくもワイドスクリーンに対して異なる反応を示したのは、映画史を語るうえで、非常に興味深い出来事でしょう。

ちなみに、この両監督は、映画のカラー化に対しても、まったく異なる反応を示しました。

小津は、1958年の「彼岸花」で初めてカラー化に取り組みます。とは言っても、そこは小津。数あるカラーフィルムをさんざん試した結果、赤色がくっきりと特徴的に出る、(西)ドイツのアグファ・カラーを採用するのでした。あとにも先にも、小津ほど徹底してアグファを使った監督は、他にいないのではないでしょうか。

私も、以前英語教材を作るため、6mmテープ(一般的な音声の録音用)を選ぶとき、最初はTDKなどを使っていましたが、あるとき、フト小津のことを思い出して、アグファの6mmを使ったことがありました。他のテープに比べると、ややフニャっとした手触りでしたが、何か、気分が高揚したことを覚えています。

アグファはまた、一時(1990年代はじめ頃)日本でも、35mmカメラ用にカラーフィルムで市場を切り開こうとしましたが、コダックやサクラ、フジなど競合ひしめく国内では、結局退散せざるを得ませんでしたが。ちなみに、そのときのTVCMには、真っ赤な超ロングドレスを着たモデルが起用されていました。かくの如し、アグファ自身も、自らの赤色に対する想いがあったのでしょうね。

一方の黒澤ですが、積極的にワイドスクリーンには取り組んだものの、逆にカラー化に関しては、終始手を出しませんでした。納得したのか、ようやくカラー映画を撮ったのは、もう全盛期を過ぎた頃(1970年)の「どですかでん」になります。

このあたり、同じ、日本を代表する映画監督でも、画面や色に対する思いは、相当異なっていたのでしょうね。なかなか興味深い話ではあります。

2007/3/16 金曜日

進歩しない(?)人間の思惑(その2)

Filed under: 映画 — tamasa @ 17:57:14

さて、ワイドスクリーン化した映画ですが、では、実際にはどの程度、横に広がったのでしょうか?

それまでは、テレビと同じ3:4(=1:1.33)だったのが、どんどん広がり、最終的には1:2.35という、縦より横のほうが倍以上長いというところまでいき着きました。

そうなると、当然、監督としても、演出自体を見直す必要があります。

私見ですが、ワイドスクリーン全盛時の好きな監督として、ジョシュア・ローガンがあります。

1955年の作品「ピクニック」では、主演女優のキム・ノヴァクが、挑発的とも言える、そのバストを誇示するかのように螺旋階段から下りてくるシーンが今でも目に焼き付いていますが、“これぞワイドスクリーンだ!”というのは、やはり冒頭の、カンザスの片田舎に停車した列車の貨車の中から、ウイリアム・ホールデンが、両の引き戸を目一杯開け、それまで真っ暗だったスクリーン全体に光を与えたシーンでしょう。

それともうひとつは、ラストシーンで、物語の発端のように、ウイリアム・ホールデンが再び貨車に乗り、町から、そしてキム・ノヴァクから去っていくときだと思います。

彼女は、いったんは彼が去っていくのを見送るのですが、しばしのち、思い直し、クルマで貨物列車を追いかけ、そして追い着くのでした。この“再会”を空中撮影したシーンは、おそらく映画史に残る名場面だと思います。

ちなみに「ピクニック」はキム・ノヴァクの出世作というだけでなく、ジェームス・ディーンやマーロン・ブランド、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロなどを排出した「アクターズ・ステューディオ」を開いたリー・ストラスバーグの娘、スーザン・ストラスバーグのデビュー作(キム・ノヴァクの妹役)としても知られています。

注)ジョシュア・ローガンは、翌年、リー・ストラスバーグの門下生であるマリリン・モンローを起用し、「バス停留所」を撮っています

しかし、こうしたワイドスクリーンは、また、いくつかの弊害をもたらすことになるのでした…。

2007/3/15 木曜日

進歩しない(?)人間の思惑(その1)

Filed under: 映画 — tamasa @ 12:39:22

今日は、久しぶりに映画について、考えてみたいと思います。と言っても、趣旨は、何も映画に限ったことではありませんが…。

ご存知のように、映画の全盛期は、やはり1920年代、1930年…遅くとも、第二次大戦前の、ハリウッド映画でしょう(どの基準で量るかは、さまざまな意見があると思いますが)。

そしてそれは、デイビッド・ウォーク・グリフィスやセシル・B・デミル、エリッヒ・フォン・シュトロハイムといった名映画監督が栄華を極めた時代でもあります。

※もちろん、年代は少し下がるものの、ジョン・フォードや、ハワード・ホークス、ラオール・ウォルシュといった名監督も活躍していましたが

ところが、世界を二分した大戦が終わると、アメリカではテレビなるものが発明されるのでありました。

当時の映画関係者の危機感たるや、相当なものだったと推測できます。何せ、映画は有料、テレビは無料。しかも、自宅で好きなときに好きなだけ見られる…。

こうした場合、人間、よく考えるのは、テレビにはできないことを映画でやれば、お客を呼び戻せるのではないか、ということです。

その結果生まれたのが、いわゆるワイドスクリーンでした。もちろん、当時はカラーテレビなどない時代でしたから、(1930年代には、三色法=テクニカラーという形で映画のカラー化は完成していたので)カラー映画も、その差異化のために利用されました。

もっとも、一本巻のネガ・カラーフィルムは、1952年のイーストマン・コダックの登場を待たなければいけませんでしたが。

2007/3/5 月曜日

狂った一頁

Filed under: 映画 — tamasa @ 20:28:40

今日は、趣味の映画について、ちょっとだけ書きたいと思います。

先週の新聞に、懐かしい映画の題名が出ていました…「狂った一頁」。1926年の制作ですから、もう80年以上も前の作品になります。もちろん、白黒のサイレント映画です。それが来月、再上映されるというのです。

この映画、実は25年くらい前に観たことがあったのですが、そのときは、あまりの斬新さに肝を抜かしました(精神病院が舞台ということもあって)。

何しろ、監督が衣笠貞之助というのはいいとして、原作が横光利一、脚本が川端康成、撮影助手が円谷英一(のちの円谷英二:ゴジラを生み出した名監督ですね)という、そうそうたる大家が揃って制作した作品なのです。

衣笠貞之助は、これを監督するに当たって、横光利一や川端康成などと供に、「新感覚派映画連名」という団体を組織したのですが、名前のとおり、映画自体は、非常にアバンギャルドで、随所に、当時隆盛を誇っていたエイゼンシュタインのモンタージュがふんだんに使われています。

しかも、今回、フィルムセンターで再上映されるに当たっては、高橋悠治がピアノ伴奏をつけるという、前代未聞の試みなのです。

気持ちは、もう今からワクワクしているのですが、こともあろうか、上映されるのは、来月の8日…つまり、私の誕生日で、しかも日曜の夜なのです。ということで、家族の手前、断念することにしました。

嗚呼。

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